最近のカプコンのゲームを遊んでいると、少し不思議な感覚になる。操作性はいい。映像もきれい。アクションの完成度も高い。大きなタイトルなら、ボリュームも十分にある。それでも、遊び終わったあとに「このゲームでなければ味わえなかったもの」が以前より少なくなったように感じる。
凡作という意味ではない。むしろ逆だ。カプコンは今でも非常に完成度の高いゲームを作っている。ただ、その完成度を上げる過程で、誰にとっても遊びやすく、理解しやすく、長く遊べるものへと調整されるほど、作品固有の癖まで薄くなっているのではないか、というのが今回の話だ。
まず、カプコンは本当に「保守的」なのか
現在のカプコンが、新しいことをやらなくなった会社だとは言えない。
『PRAGMATA』は新規IPであり、これまでのカプコンの代表的なシリーズとはかなり違う方向性を持っている。『鬼武者 Way of the Sword』も、長期間展開されていなかったIPを現代向けに復活させたタイトルだ。『モンスターハンター』も『ワールド』以降、世界市場を意識した大規模なシリーズへと発展している。
一方で、カプコンは『バイオハザード』など、すでに巨大な市場を持つIPを継続的に展開している。過去作品のリメイクも重要な柱になっている。ここまでは事実だ。だから「カプコンは新しいものを作らなくなった」という批判は正確ではない。
私が気になるのは、その先にある。新しいものを作っているにもかかわらず、最終的に出来上がるゲームの設計思想が、似た方向に収束していないかということだ。
『鬼武者 Way of the Sword』は分かりやすい例だと思う
『鬼武者 Way of the Sword』で最も評価したいのは、やはり戦闘だ。刀を振ったときの重量感、敵の攻撃を受けるタイミング、弾きから一閃につなげる気持ちよさ。敵の動きを見て、自分の操作で返すというアクションそのものは、非常にカプコンらしい。
一方で、京都に入ってからはゲームの印象が変わる。
広いエリアを歩き、素材を集め、依頼を受け、マップ上の要素を消化する。敵との戦闘も一度だけではなく、似たような戦闘コンテンツが繰り返される。レビューでも、京都の探索エリアや繰り返し要素については評価が分かれている。特に、一本道に近いステージ構造と比較して、広い探索エリアではテンポが落ちるという指摘がある。
『鬼武者』というゲームに、本当にこれだけの「現代的な大作ゲームの要素」が必要だったのだろうか。『鬼武者』の魅力は、刀を持った主人公が敵と向き合うことだった。広大な世界を探索することがシリーズの中心だったわけではない。それなのに、現代の大型タイトルとして成立させようとすると、探索、収集、サブクエスト、広いマップといった要素が加わっていく。
ゲームとして悪いわけではない。
ただ、「アクションを面白くするために必要だった要素なのか」と考えると、少し疑問が残る。これは、いわゆる「マップ掃除」の問題でもある。マップを開けば、やるべきことがたくさん表示される。プレイヤーはそれを一つずつ消していく。プレイ時間は伸びるし、コンテンツ量も増える。
しかし、プレイ時間が増えたことと、そのゲームらしさが増えたことは同じではない。
では、昔のカプコンは何が違ったのか
クリエイターの話になる。カプコンには過去、三上真司氏や神谷英樹氏のように、作品と個人の名前がかなり強く結びついていたクリエイターがいた。
例えば『バイオハザード2』。神谷氏がディレクターを務めた初期バージョンは、後に「バイオハザード1.5」と呼ばれることになる。開発途中で方向性が見直され、最終的には大幅な作り直しが行われた。この判断にはプロデューサーだった三上氏も関わっている。
昔のカプコンが「自由な会社だった」という話ではない。むしろ、巨大なタイトルを途中から作り直すという非常に大きな経営判断が存在していたことだ。そして、その結果として生まれた『バイオハザード2』はシリーズを大きく発展させた。
さらに神谷氏がディレクターを務めた『デビル メイ クライ』も面白い例だ。この企画はもともと『バイオハザード4』の開発過程から生まれた。アクション性が強くなりすぎ、最終的に『バイオハザード』とは別のタイトルとして独立した。つまり「バイオハザードとして売れる形に戻す」のではなく、「これはもう別のゲームとして作ったほうがいい」と判断された。結果として『デビル メイ クライ』という新しいシリーズが生まれた。これは事実として非常に興味深い。
そして私が感じるのは、現在の大作開発では、このような「企画が途中で別のものになってしまう余地」が以前より小さくなっているのではないか、ということだ。
開発費も人員も市場規模も、当時とは違う。途中で方向性が大きく変われば、それだけコストもリスクも増える。だからこそ、合理的に考えれば「最初に決めた方向へ、できるだけ正確に進む」ほうがいい。
そして、ここで重要になるのが「誰がゲームを作るのか」という問題だ。
ゲームの規模が大きくなるほど、一人のクリエイターだけですべてを決めることは難しくなる。ディレクター、プロデューサー、各部門の責任者、そして会社そのものが開発に関わる。その結果、ゲームは個人の作品であると同時に、巨大な組織によって作られる製品にもなっていく。
だからこそ、過去のカプコンで実際に強い権限を持っていたクリエイターたちを見ると、この変化がより分かりやすい。
三上真司氏がカプコンを離れた後
まず、その代表的な存在が三上真司氏だ。三上氏は2006年にカプコンを退社し、その後Tango Gameworksを設立した。『The Evil Within』などを手がけ、カプコン時代とは異なる環境でゲームを作るようになった。しかし、ここで「三上氏がカプコンを離れたから、カプコンのゲームがつまらなくなった」と考えるのは単純すぎる。
むしろ数字を見ると、かなり逆の結果になっている。現在のカプコンを代表する『バイオハザード7』は累計1840万本、『バイオハザード RE:2』は1970万本、『モンスターハンター:ワールド』は2240万本を販売している。『モンスターハンター:ワールド』は『Iceborne Master Edition』を含めれば3040万本に達し、カプコン史上最大級のヒットとなった。
つまり、三上氏がいなくなった後のカプコンは、決して弱くなったわけではない。むしろ、三上氏が作り上げた『バイオハザード』という強烈な個人性を持つIPを、三上氏がいなくても継続的に作り続け、さらに世界規模のブランドへと拡大することに成功した。
『バイオハザード7』では三人称視点から一人称視点へ大胆に変更し、RE ENGINEを導入するなど、シリーズそのものを大きく作り替えている。それでも『バイオハザード』として成立させることができた。発売当初から大きく方向転換しながら、最終的には1840万本まで販売を伸ばしている。
ここに、現在のカプコンの強さがあると思う。昔のカプコンは「三上真司氏がバイオハザードを作る」という、個人の作家性に大きく依存した部分があった。現在のカプコンは、その作家がいなくても、作品の核を抽出し、大規模な開発体制とマーケティング、長期的なデジタル販売によって、世界市場で何千万本も売れるゲームへと再構築できる。
実際、カプコン自身も『モンスターハンター:ワールド』について、発売後も長期的にデジタル販売を続けることで販売を伸ばし、カタログタイトルが年間販売本数の70%以上を占めるまでになったと説明している。これは間違いなくカプコンの大きな強みだ。
ただし、同時にここから「個人がゲームを作ること」と「会社がゲームを作ること」の違いも見えてくる。個人の作家性は、その人にしか作れないものを生み出す。
一方、カプコンの現在の開発体制は、優れたゲームデザインを個人の才能だけに依存せず、何度でも再現し、世界市場へ拡大できる。言い換えれば、昔のカプコンは「人がゲームを作っていた」。現在のカプコンは「会社そのものがゲームを作れる」。
これは明らかな進化でもある。
ただ、その強さがあるからこそ、逆のケースも見てみる必要がある。カプコンを離れたクリエイターたちは、その後どのようなゲームを作ったのか。そして、個人の作家性を残したまま、大規模なゲームを成立させることは本当に難しいのか。
その答えを考えるうえで、神谷英樹氏と横尾太郎氏、そしてプラチナゲームズの関係は非常に興味深い。
神谷英樹氏、横尾太郎氏とプラチナゲームズ
神谷英樹氏もカプコンを離れ、Clover Studioを経てプラチナゲームズへ移った。『大神』や『Bayonetta』を見ると、神谷氏のゲームにはかなり強い癖がある。特に『Bayonetta』は、世界市場を狙った大作でありながら、万人向けに平均化されたゲームとはかなり違う。主人公のキャラクター、過剰な演出、アクション、ユーモアまで、作り手の趣味がそのまま作品になっている。
もちろん、それが最初から巨大な商業的成功だったわけではない。初代『Bayonetta』は2010年3月までに世界で135万本を販売したが、プラチナゲームズ側は当時、その数字が期待を下回ったと説明している。その後、移植やリマスターを重ねながら販売本数を伸ばしていった。そして、より象徴的なのが横尾太郎氏との『NieR』だ。
横尾氏の世界観やストーリーはかなり個人的で、万人が理解しやすいものではない。一方、プラチナゲームズは、その世界観をアクションゲームとして成立させる役割を担った。結果として、発売当初は決して巨大IPとは言えなかった『NieR』が、口コミや継続的な展開によって長く売れ続ける作品になった。
2017年9月の時点で、発売から半年ほどで世界累計200万本を突破。その後も販売を伸ばし続け、2026年には世界累計1000万本を突破したことが公式に発表されている。
ここで重要なのは、「個性的なゲームは売れない」という話が、必ずしも事実ではないことだ。『NieR』は、作家性の強いゲームでも、優れた開発力と組み合わせることで巨大な市場に到達できることを示した例だと思う。横尾太郎氏の世界観を、プラチナゲームズのアクション開発力が支える。どちらか一方を平均化するのではなく、それぞれの得意分野を残したまま一つの大作にする。
私は、この関係こそが「個人の作家性」と「大規模なゲーム開発」を両立させる一つの形だったと思っている。
小島秀夫氏とKONAMI
この問題を考えるうえで、もっとも象徴的なのが小島秀夫氏とKONAMIの関係だ。
『メタルギア』はKONAMIの巨大IPだった。しかし同時に、シリーズは強烈に「小島秀夫のゲーム」でもあった。長い無線会話、映画的な演出、政治的なテーマ、メタフィクション、独特のユーモア。大作としてはかなり特殊な作品だったが、それでも世界的な成功を収めた。
小島氏はKONAMIの社内で大きな制作権限を持ち、Kojima Productionsという専属チームまで形成した。しかし、KONAMIがゲーム事業の方向性を変えていく中で両者の関係は悪化し、2015年に小島氏はKONAMIを離れることになる。
その後、小島氏は独立してKojima Productionsを設立し、Sony Interactive Entertainmentと組んで『DEATH STRANDING』を制作した。ここで興味深いのは、自由な環境を手に入れたからといって、必ずしも商業的な成功が約束されるわけではないことだ。
『DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH』は高い評価を受けた一方、現時点で公表されている分析では、PS5版が約160万本、PC版が初週約42.5万本で、合計は200万本強と推計されている。さらに別の分析では、開発費に対して利益率がかなり低く、シリーズ全体としても「大きく儲かった」とは言いにくい数字が示されている。公式の確定販売本数ではないため断定はできないが、少なくとも巨大なAAAタイトルとしては、非常に強い商業成績とは言いにくい。
そして2026年には、さらに象徴的な出来事が起きた。Sonyは小島氏の次回作『PHYSINT』から手を引き、その後Xboxが出版を引き受けることになった。小島氏自身も、Sonyからのキャンセル通知は突然だったと説明している。
つまり、小島氏の例は「クリエイターを会社から解放すれば、すべてうまくいく」という単純な話ではない。
むしろ逆だ。作家性の強いゲームは、会社が作る「平均的に売れるゲーム」から外れることができる。その代わり、売上もまた平均から外れる可能性がある。KONAMIとの決裂、独立後の『DEATH STRANDING』、そして現在のSonyとの関係を見ると、大企業と強い作家性を持つクリエイターの間には、結局どこかで「どこまで自由を許すのか」という問題が残る。
そして、ここがカプコンを考えるうえでも重要だと思う。カプコンが最大公約数を狙うのは、単純に保守的だからではない。巨大な開発費をかける以上、売上の予測が立ちやすいゲームを作る合理性がある。
ただ、その合理性を突き詰めれば突き詰めるほど、三上真司氏や神谷英樹氏、小島秀夫氏のような「この人だから、このゲームになった」という作品は生まれにくくなる。結局、大企業にとって一番難しいのは、作家性のあるゲームを作ることではない。
作家性のために、平均から外れることを許すことなのだ。
カプコンは「安全なゲーム」を作っているのか
ここから先は、かなり私の推測になる。カプコンが「株主のために安全なゲームを作っている」と断言することはできない。経営陣が個々のゲームについてどのような判断をしているのか、外部からすべて分かるわけではない。ただ、大規模なゲーム会社ほど、商業的なリスクを無視できないのは当然だ。巨大な開発費を投入する以上、できるだけ多くのユーザーに届くゲームを作りたい。シリーズなら既存ファンを失いたくない。新規ユーザーも獲得したい。海外市場でも売りたい。
そう考えると、探索、収集、サブクエスト、長いプレイ時間、広いフィールド、初心者への配慮といった要素が増えていくのは不思議ではない。
一つ一つは正しい。しかし、全部を足していくと「どこかで見た大型ゲーム」になってしまう。これが、私がカプコンのゲームに感じている「平均化」だ。
「作り手が面白いと思うもの」から始められるか
昔の三上真司氏や神谷英樹氏、小島秀夫氏、現在の横尾太郎氏などを見ていると、最初にあるのは市場調査ではなく、「自分はこれを作りたい」という強い意志に見える。
もちろん実際には、彼らも会社の予算や販売戦略から自由だったわけではない。それでも、作品を見たときに「この人が作ったから、こうなった」と感じられる。私はここが重要だと思う。大衆向けにすること自体が問題なのではない。
『NieR』は世界中で売れた。『メタルギア』も巨大な商業シリーズになった。『バイオハザード4』も世界的な成功を収めた。つまり、個性と商業性は必ずしも反対ではない。
問題は、最初から「最大公約数」を出発点にしてしまうことだ。
『鬼武者』なら、刀を振ることを極端なまでに突き詰める。
『モンスターハンター』なら、一匹のモンスターとの戦いを極端なまでに突き詰める。
それだけでも、大作ゲームは成立するはずだ。ゲームを大きくすることと、ゲームを面白くすることは同じではない。
カプコンに必要なのは「もっと尖ったゲーム」なのか
これも私の意見だ。
カプコンに必要なのは、すべてのタイトルを尖らせることではないと思う。『バイオハザード』や『モンスターハンター』のような巨大IPを安定して展開することには、それ自体に価値がある。
ただ、その一方で、会社の中に一人のクリエイターが「これは自分のゲームだ」と言える作品を作る余地が残っていてほしい。
短くてもいい。
不親切でもいい。
万人には受けなくてもいい。
マップに大量のアイコンがなくてもいい。
「このゲームでなければ存在しないもの」が一つあればいい。
カプコンは、ゲームの平均点を上げる能力については、おそらく世界最高クラスだ。だからこそ、次に見てみたいのは、平均点を上げることではない。「平均」から外れてしまったゲームを、それでも会社として世に出せるのか。
昔のカプコンには、それをやった人たちがいた。
現在のカプコンがもう一度それを許せるなら、今の圧倒的な開発力と組み合わさって、かつてとは違う「カプコンらしいゲーム」が生まれる可能性はあると思う。

