今日はもともと別のテーマでブログを書くつもりだった。ところがXを見ていると、『The Last of Us』関連の投稿がやたらと目に入ってきた。特に「The Last of Usに2つの新プロジェクトが初期段階で進行中」というニュースが話題になっていて、それを見ているうちに、ふと『The Last of Us Part II』が発売された当時のことを思い出した。
あの頃は、とにかく『The Last of Us Part II』をめぐる議論がすさまじかった。今振り返れば、単なるゲームの感想というより、ほとんど戦争のような状態だったと思う。ジョエルの死、エリー、アビー、物語の展開、ノーティードッグそのものまで、ゲームの内容をめぐってあらゆる意見が飛び交っていた。
もちろん、発売から何年も経った今になって、当時と同じ熱量で何かを争う必要はない。あれから時間も経ったし、作品そのものを落ち着いて振り返ることもできるようになった。
ただ、自分は『The Last of Us Part II』について、当時から今まで、実はまだかなり言いたいことがある。『The Last of Us Part II』は、近年のAAAゲームの中でも、「これはあくまで一つの作品である」という当たり前のことを忘れさせてしまったゲームだと思う。ジョエルの死、エリーの選択、そしてアビーに割かれた長いパートをめぐって、発売直後から現在まで大きな議論が続いている。その中には「前作を裏切った」「プレイヤーを裏切った」という批判も多かった。しかし、文学や映画まで視野を広げてみると、少し奇妙なことに気づく。小説や映画の作者に対しては、観客の感情に責任を取れとはあまり言わないのに、ゲームになると、なぜかプレイヤーは作者に対して特別な権利を持っているかのように語られる。
自分が『The Last of Us』を遊ぶとき、ジョエルやエリーを「自分自身」として捉えたことはない。もちろんジョエルという人物を理解することはできるし、キャラクターとして好きになることもできる。しかし、「理解すること」と「同一化すること」はまったく別の話だ。ジョエルは娘サラを失い、終末世界で長い間暴力によって生き延びてきた。そしてエリーと出会うことで、再び父親に近い感情を持つようになる。だが、第一作の物語が描いたのは、ジョエルが過去の価値観を完全に捨て去ったということではない。彼は人間社会やファイアフライの理念を理解して、倫理的に生まれ変わったわけでもない。ただ、もう一度「失いたくない人」を手に入れたのである。
だからこそ、第一作のラストは救済ではない。ジョエルはファイアフライを殺し、エリーを連れ出し、最後には彼女に嘘をつく。この嘘は非常に重要だと思う。ジョエルはエリーによって過去から解放されたのではなく、むしろ過去と同じやり方で問題を処理している。暴力で結果を奪い取り、その結果を維持するために嘘をつく。もちろんジョエルにとってエリーが娘に近い存在になったこと自体は否定できない。しかし、それだけでジョエルの人生観まで根本的に変わったと考える理由はない。
だから第二作の冒頭でジョエルが殺されたとき、自分はまったく驚かなかった。むしろ、「この人間があれだけのことをして、なぜ何事もなかったかのように生き続けられると思うのか」と感じた。ジョエルが過去に何をしたのかを考えれば、その行為が誰かの人生を破壊していることは第一作の時点ですでに明らかだった。彼がその代償を払うこと自体は、続編で突然追加された設定ではない。第一作の最後にすでに存在していた因果関係を、第二作が回収しただけだ。
だから、自分には『The Last of Us Part II』に対する「プレイヤーを裏切った」という批判がどうしても理解しにくい。そもそもプレイヤーは何を期待していたのだろうか。第一作はジョエルとエリーに安全な未来を約束していない。二人がこれからも一緒に冒険を続けるとも約束していない。ジョエルがエリーによって道徳的に生まれ変わるとも約束していない。多くの「期待」は作品そのものから導き出されたものではなく、プレイヤーが第一作を終えた後に自分の中で作り上げたものにすぎない。
もちろん、「ジョエルには生きていてほしかった」「ジョエルとエリーの物語をもっと見たかった」と思うこと自体は何も悪くない。好きなキャラクターに幸せになってほしいと思うのは当然だ。ただし、「自分はジョエルに生きていてほしかった」と「ジョエルを殺すのは脚本家の失敗だ」はまったく違う。前者は観客の感情であり、後者はその感情を作品の創作権より上に置こうとする考え方だからだ。
映画なら、こんな話はもっと簡単に理解される。
クエンティン・タランティーノの映画では、登場人物が突然死ぬことが珍しくない。『パルプ・フィクション』のヴィンセント・ベガは、物語の中心人物の一人でありながら、あまりにもあっけなく殺される。『ジャンゴ 繋がれざる者』のシュルツも、物語の終盤で自分の信念に従った直後に突然死ぬ。もちろん観客は彼らを好きになってもいいし、「死んでほしくなかった」と思ってもいい。しかし、「長い時間このキャラクターについてきたのだから、こんな殺し方は観客への裏切りだ」と言ってタランティーノを責める人はほとんどいない。
なぜなら、当たり前のこととして理解されているからだ。これはタランティーノの作品であり、人物をいつ殺すかを決める権利は作者にある。観客はその選択を評価できるし、気に入らないと言うこともできる。しかし、観客が人物の命運を所有しているわけではない。
ところがゲームには、「操作する」という特殊な要素がある。プレイヤーはジョエルを動かす。アーサー・モーガンを動かす。ゲラルトを動かす。そこから「このキャラクターは自分のキャラクターだ」という錯覚が生まれやすい。しかし、操作権と物語上の所有権はまったく別のものだ。
『Red Dead Redemption 2』を遊んでいて、自分はアーサー・モーガンを自分自身だとは思わない。アーサーは悲劇的な人物だが、同時に長年にわたって暴力で生きてきた人間でもある。強盗をし、人を殺し、ダッチの命令に従い、その生き方そのものを長い間本気で疑ってこなかった。後半になってアーサーが自分の人生を見直し始めるからこそ、彼の「救済」が成立する。彼の境遇を理解することはできる。しかし、それは彼を無条件に同情したり、ましてや自分自身と重ね合わせたりすることを意味しない。
ゲラルトも同じだ。プレイヤーがゲラルトを操作するからといって、ゲラルトがプレイヤーになるわけではない。ゲラルトにはゲラルト自身の過去、職業、価値観、人間関係がある。プレイヤーがやっているのは、自分の人格をゲラルトに注入することではなく、すでに存在している人物を操作しながら、その人物の人生を見ることだ。
文学では、この距離感はさらに当たり前のものとして扱われている。『罪と罰』を読めば、ラスコーリニコフがなぜ殺人を犯したのかを理解することができる。貧困、思想、自尊心、自己正当化、精神的な崩壊、そして宗教的な救済まで、その心理を追うことができる。しかし、理解することは同意することではない。悲劇的な人物だと思うことは、その人物を無条件に「かわいそうな被害者」として扱うことでもない。
自分は『白痴』のミシュキン公爵のような人物に同情することもあるし、『罪と罰』のラスコーリニコフの心理を理解することもできる。しかし、その人物に「自分」を重ねる必要はない。むしろ、人物を人物として見るためには、この距離が必要だと思う。
ところがゲームは、この距離を消すことを非常に得意としてきた。「これはあなたの物語だ」「これはあなたの選択だ」「これはあなたの仲間だ」「これはあなたの冒険だ」。こうした言葉やシステムによって、プレイヤーは少しずつ物語の中心人物ではなく、物語の所有者であるかのような感覚を持つようになる。
特に大型RPGではそれが強い。数十時間をキャラクターと過ごし、仲間との関係を深め、選択肢を選び、世界を救う。その結果、「これだけ時間を使ったのだから、作品は自分に相応の感情的な報酬を返すべきだ」という感覚が生まれる。
『ペルソナ5』は、その構造を非常に上手く作ったゲームだと思う。仲間との関係は基本的にプレイヤーを肯定する方向へ進み、コミュニティやイベントはプレイヤーに強い正のフィードバックを与え、主人公が物語の中心であることもほとんど揺らがない。これは商業ゲームとして非常に洗練された設計だ。しかし、それを「ゲームとはこうあるべきだ」というルールにしてはいけない。
商業ゲームだからといって、プレイヤーを満足させる義務があるわけではない。売れる必要がある。市場を考える必要がある。プレイヤーに買ってもらう必要がある。それは当然だ。しかし、「金を払ったのだから、自分の望む物語を提供しろ」という話になると、それはもはや創作論ではなく、消費者としての要求を芸術にまで持ち込んでいるだけだ。
ゲームを買ったことによって得られるのは、その作品に触れる権利であって、結末を注文する権利ではない。
『The Last of Us Part II』が特に過激だったのは、まさにこの部分だと思う。
アビーが嫌いでも、プレイヤーは彼女を操作させられる。ジョエルを殺した人間を理解したくなくても、その人物の人生を何時間も追わされる。エリーにアビーを殺してほしくても、ゲームはその願いを叶えない。第一作で作られた関係をそのまま続けてほしくても、作品はそれを拒否する。もちろん、これらの選択がすべて成功しているとは限らない。アビー編が長すぎるという批判もできる。エリーが最後に復讐をやめる展開についても、その心理的な説得力を議論できる。人物の行動や物語のテンポについて批判することも当然できる。
しかし、それは「この作品はこう書くべきだった」という作品評価の話であって、「作者がそんなことをしてはいけない」という話ではない。ここは明確に分けるべきだと思う。
自分はこれを、あえて「作者の専制」と呼びたい。かなり強い言葉だが、悪い意味だけではない。作者の専制とは、作品の最終的な解釈権が作者側にあるということだ。観客は作品を批判できる。嫌いだと言うこともできる。作者が失敗したと判断することもできる。しかし、自分が時間と金と感情を投入したからといって、登場人物の人生を決める権利まで手に入れたわけではない。
これはゲームという媒体にとって、かなり重要な問題だと思う。プレイヤーはゲームを操作する。しかし、操作したからといって創作したわけではない。プレイヤーはキャラクターに感情移入できる。しかし、感情移入したからといってキャラクターを所有するわけではない。プレイヤーは何十時間も遊ぶ。しかし、時間を使ったからといって作者に「自分の期待に応える義務」が発生するわけでもない。
『The Last of Us Part II』は、そこを徹底的に突いてくる。エリーを操作できても、エリーが最後に何を選ぶかはプレイヤーが決められない。アビーを操作しても、アビーを自分の分身にすることはできない。ジョエルを好きだったとしても、ジョエルを生き残らせる権利はない。
これはゲームとして不親切なのかもしれない。しかし、作者性という意味では非常に強い。そして、自分がこのゲームを高く評価する理由もそこにある。『The Last of Us Part II』は、プレイヤーに「あなたの物語です」と言いながら、その実、プレイヤーの感情を最終的な判断基準にはしなかった。
これは「プレイヤーを大切にしない」という話ではない。むしろ、プレイヤーを単なる消費者として扱わず、一人の観客として作品の前に置いた、とも言える。映画を見て、登場人物が死ぬ。小説を読んで、主人公が間違える。ゲームを遊んで、操作していたキャラクターが自分の望まない結末を迎える。
そのとき必要なのは、「作者は自分を裏切った」という感覚ではなく、「なぜ作者はこの人物をこう描いたのか」と考えることではないだろうか。作品はプレイヤーの感情を満たすためだけに存在する必要はない。むしろ、プレイヤーの期待を裏切る自由すら持っているべきだと思う。
『The Last of Us Part II』をめぐる議論で本当に考えたいのは、ジョエルが死ぬべきだったかどうかだけではない。なぜ私たちは、ゲームだけに「自分がこれだけ時間を使ったのだから、作品は自分を裏切ってはいけない」という特別な契約を要求するようになったのか。そこには、ゲームが成熟した結果として生まれた新しい鑑賞方法がある一方で、プレイヤー自身の「自分はこの作品の中心にいる」という意識が、必要以上に大きくなっている部分もあるのではないか。
少なくとも自分は、ゲームを遊ぶときにキャラクターの人生を自分の人生として扱う必要はないと思っている。ジョエルはジョエルであり、アーサーはアーサーであり、ゲラルトはゲラルトだ。
そして、彼らがどう生き、どう死ぬのかを決めるのは、最後まで作者の仕事だ。

