コラム
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ソニーが作る「大作」は、なぜ新しく見えないのか――『Marvel's Wolverine』
『Marvel's Wolverine』が9月15日にPS5向けに発売された。ソニーにとっても、インソムニアックにとっても非常に大きなタイトルであり、ソニー自身も本作をPlayStation Studiosにとっての「major milestone」と位置付けている。 しかし、発売後の評価を見ると、これまでのインソムニアック作品ほどの勢いは感じられない。Metacriticでは77点、OpenCriticでも79点前後となっており、『Marvel's Spider-Man』の87点、『Marvel's Spider-Man: Miles Morales』の85点、『Marvel's Spider-Man 2』の90点と比較すると明確に低い。IGNも6/10を付け、戦闘の単調さ、一本道の構成、敵のバリエーション、プレイヤーの自由度などを問題点として挙げている。 一方で、これを単純に「メディアから酷評され、ユーザーにも売れなかったゲーム」とするのも正確ではない。PlayStation Storeでは高い評価を得ている一方、Metacriticのユーザースコアは批評家より低く、反応はかなり分かれている。また、Alinea Analyticsの推計では、発売後数日間でPS5版が約190万本、約1億3000万ドルの売上に達したとされている。これはソニーが公表した公式数字ではないものの、少なくとも「評価が低いから売れていない」という単純な状況ではない。 むしろ今回興味深かったのは、レビューだけではなく、プレイヤー自身が実際のプレイ動画を通してゲームの問題点を可視化していったことだ。攻撃やパリィを単純に繰り返すだけでも安全に戦える場面や、操作の必要性が薄いまま進行してしまうように見えるシーンなどが動画として拡散された。もちろん、ゲーム全体をほとんど操作せずにクリアできるという意味ではない。しかし、プレイヤーが戦闘システムを深く理解しなくても進められてしまう場面が注目されたことは、本作の問題を考えるうえで象徴的だったと思う。 では、なぜ同じインソムニアックが作った『Spider-Man』では、こうした問題がそれほど目立たなかったのか。私は、その理由の一つがキャラクターそのものにあると考えている。 『Spider-Man』には、戦闘以外にも非常に強力なゲームプレイ上の武器がある。それがウェブ・スイングだ。ビルから飛び降り、ウェブを建物に引っ掛け、道路すれすれを通過しながら次の場所へ向かう。この移動そのものが気持ちよく、目的地へ向かうだけでも一つの遊びになっている。そのため、オープンワールドにありがちな収集要素やサブミッションにある程度の反復性があっても、その間を移動すること自体がゲームとしての楽しさを補ってくれる。 一方、『Wolverine』の魅力は、スパイダーマンのような移動能力ではなく、驚異的な再生能力と爪を使った肉弾戦にある。つまり、戦闘そのものが作品の中心にならなければならない。移動や探索で戦闘の単調さを補うことが難しい以上、ここでシステムの深さが問われることになる。 ここに、インソムニアックの強みと弱みが表れているように思う。インソムニアックは、グラフィック、映画的な演出、キャラクター、マップ、サブミッション、収集要素、スキルツリー、アップグレード、派手なアクションなど、大量の要素を一つの大作としてまとめ上げる能力が非常に高い。しかし、コンテンツを大量に用意することと、プレイヤーがシステムを理解し、研究し、習熟することで遊び方そのものが変化することは別の話だ。 『Wolverine』では、攻撃、回避、パリィ、アビリティなど多くの要素が用意されているものの、それらを深く理解することをプレイヤーに要求する力は弱い。簡単なゲームであること自体が問題なのではなく、システムを研究することでより上手く、より効率的に戦えるという動機が弱いことが問題なのだと思う。 そして、この問題はインソムニアック一社の問題だけではない。現在のPlayStation Studiosを見ていると、オープンワールド、収集要素、サブクエスト、スキルツリー、装備強化といった、AAAゲームとしてお馴染みの構造がかなり共通して見られるようになった。 もちろん、だからといって『Spider-Man』や『Horizon』、『Ghost of Tsushima』まで単純に「量産型のAAAゲーム」と呼ぶつもりはない。それぞれに、ウェブ・スイング、機械獣との戦闘、独特の世界観と剣戟という、その作品だから成立するゲームプレイの核があったからだ。基本的な構造が似ていても、その中心に強い個性があれば、単なるテンプレートにはならない。 だからこそ、『Wolverine』ではその差がよりはっきり見えてしまう。ウルヴァリンというキャラクターには、再生能力や肉体へのダメージそのものをゲームシステムに組み込むなど、まだ大きく踏み込める余地があったはずだ。しかし実際には、そうしたキャラクター固有の可能性よりも、既存のAAAゲームの構造に収まる方向へ進んでいるように見える。 そして、ここでソニーの存在が重要になる。『Wolverine』はMarvelという巨大IPに加え、PlayStation Studiosとインソムニアックという強力なブランドを背負い、PS5独占の大型タイトルとして大々的に展開された。もちろん、大作ゲームに大規模なプロモーションが必要なのは当然であり、外部から開発費と宣伝費の内訳を正確に知ることもできない。そのため、「ゲーム開発より宣伝に金を使った」といった話を事実としてするつもりはない。 ただ、完成したゲームと、それに対するソニーの扱いを並べて見ると、私には「新しいゲーム体験を作ること」以上に、「PlayStationの大型タイトルとして成立させること」に力が入っているように見えてしまう。これだけのブランド、資金、人材、技術力を投入した結果として、最終的に残ったものが「非常によく出来たAAAゲーム」に見えてしまうからだ。 ここが、現在のソニーに対して私が最も気になっている部分である。かつてのPlayStationが強かったのは、単純に大きなゲームを作ったからではない。映画的な演出や大規模な物語を取り込みながら、その予算を「ゲームでしかできない体験」に変えていたからこそ、他社との差別化ができていた。 『Wolverine』を見て感じるのは、その差が少しずつ小さくなっていることだ。大規模なグラフィック、大量のコンテンツ、映画的な演出、豪華なキャスト、巨大なIP。どれもAAAゲームとしては重要だが、それだけではもはや特別なものではない。 結局のところ、問題はソニーが大作ゲームを作ることでも、インソムニアックの制作能力が低いことでもない。むしろ両者とも、大規模なAAAゲームを高い完成度で作り上げる能力は十分に持っている。だからこそ、その規模を「これまでになかったゲーム体験」に変えられていないことが気になる。 「大きく作る」ことと「新しく作る」ことは同じではない。『Wolverine』は、その違いをかなり分かりやすく見せてしまった作品だった。これだけの資金、人材、技術力、そして巨大なIPを使って作られたゲームが、最終的に「非常によく出来たAAAゲーム」というところで止まってしまう。私には、それこそが現在のソニーとPlayStation Studiosにとって最も大きな問題に見える。
Read more悪魔城ドラキュラ40周年、再始動のとき
2026年、『悪魔城ドラキュラ』が40周年を迎えた。KONAMIは今年をシリーズ40周年の節目と位置づけ、10月15日には新作『Castlevania: Belmont's Curse』を発売する。東京ゲームショウ2026では国内初の試遊も行われ、40年間の歴史を振り返る展示も用意された。 さらに興味深いのは、KONAMIが『Belmont's Curse』を単なる40周年記念タイトルではなく、40周年企画の「第1弾」と位置づけていることだ。今後もシリーズに関する展開が予定されているという。 つまり、『悪魔城ドラキュラ』は本当に戻ってこようとしている。ただ、このシリーズには一つ大きな問題がある。新作が長い間出ていなかったことだ。そして、その10年以上の間に、ゲーム市場そのものが大きく変わってしまった。 『悪魔城ドラキュラ』はなぜ新作を失ったのか 『悪魔城ドラキュラ』は、決して昔のままのシリーズではなかった。 1986年の第1作から始まり、『悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲』では探索、マップの開放、装備、キャラクター成長などを組み合わせた新しいゲームデザインを確立した。その後もGBAやニンテンドーDSで多くの作品が発売され、「探索型の悪魔城」はシリーズを代表するスタイルになっていった。 一方で、KONAMIは別の方向にも挑戦している。 2010年の『Castlevania: Lords of Shadow』ではシリーズを大規模な3Dアクションへと転換し、2014年には続編が発売された。その間に五十嵐孝司氏をはじめ、シリーズを支えてきた開発者たちもKONAMIを離れていった。 そして、『悪魔城ドラキュラ』の新作は長い沈黙に入る。 ただ、これを単純に「KONAMIがIPを捨てた」と考えるのは少し違う。KONAMIはその後も『Castlevania Anniversary Collection』『Castlevania Advance Collection』『Castlevania Dominus Collection』などを発売し、Netflixのアニメシリーズなどを通してIPそのものを維持してきた。 止まったのは、『悪魔城ドラキュラ』という名前ではない。新しい『悪魔城ドラキュラ』を作り続けることだった。 そのゲームデザインは残った ここからが、このシリーズの面白いところだ。 『悪魔城ドラキュラ』が新作を出さなくなった一方で、そこで生まれたゲームデザインはむしろ広がっていった。 『スーパーメトロイド』と『月下の夜想曲』によって形作られた探索型アクションは、現在では「メトロイドヴァニア」という名前で一つのジャンルとして定着している。 そして、この10年ほどでこのジャンルは大きく発展した。『Hollow Knight』は探索と戦闘、マップ、世界観を一つの巨大な世界としてまとめ上げ、『Ori』は美術表現とアクションの完成度を追求した。『Celeste』は探索型ではないものの、2Dプラットフォームアクションそのものを極限まで突き詰めた作品として存在感を示した。『Dead Cells』は2Dアクションにローグライクの要素を組み合わせ、新しい方向へと発展させている。さらに『Bloodstained』のように、かつての『悪魔城ドラキュラ』を直接受け継ぐ作品まで登場した。 つまり、『悪魔城ドラキュラ』がいなくなっても、その影響を受けたゲームは増え続けた。 今でも私たちは「メトロイドヴァニア」という言葉を使ってゲームのジャンルを説明している。その言葉の中には、10年以上もコンソール向けの新作を継続して発売していなかった「ヴァニア」、つまり『悪魔城ドラキュラ』の名前が残っている。これはかなり奇妙な状況だ。 『悪魔城ドラキュラ』は市場から姿を消したのに、そのゲームデザインを受け継いだ市場はむしろ大きくなっていた。 相手は「後継者」になっている だからこそ、2026年の『Belmont's Curse』は昔の新作とは意味が違う。 もしKONAMIが2010年代を通して『悪魔城ドラキュラ』を作り続けていたなら、「これは良い悪魔城なのか」という問いだけで済んだかもしれない。しかし今のプレイヤーは、『Hollow Knight』も『Ori』も『Dead Cells』も知っている。『Bloodstained』のように、『悪魔城』そのものを受け継ごうとした作品もすでに存在する。 しかも、それらは単なる模倣ではない。『悪魔城ドラキュラ』から受け継いだ要素を、それぞれ別の方向へ発展させてきた。だから今、『悪魔城ドラキュラ』が戻ってきたときに問われるのは、「元祖だから遊ぶ価値があるのか」ということではない。 「今の時代に、なぜもう一度『悪魔城ドラキュラ』なのか」ということだ。そこで開発陣が面白い。『Belmont's Curse』には、『Dead Cells』で知られるEvil Empireが関わっている。かつてこのジャンルを作った側のIPが長い眠りから戻ってきて、その間にこのジャンルを発展させた現代の開発チームと組む。 言ってしまえば、「後から来た世代」に自分たちのゲームをもう一度現代に適応させてもらうような構図でもある。 TGSで見えた『Belmont's Curse』 今回の東京ゲームショウでの試遊を見る限り、『Belmont's Curse』は単純なリメイク路線ではない。ゴシック調の世界観、ベルモント一族、吸血鬼、城、伝統的な敵など、『悪魔城ドラキュラ』と聞いて思い浮かべる要素はしっかり残されている。 一方で、主人公には新キャラクターのローズ・ベルモントを採用。1499年のパリを舞台にし、新しい成長システムも導入されている。敵を倒すことで「Arcana」を獲得し、魔法や特殊アクションを強化していく仕組みも用意されている。 つまり、過去の『悪魔城』をそのまま再現するのではなく、シリーズらしさを残しながら、現在の2Dアクションに合わせて作り直そうとしている。これは40周年というタイミングを考えると、かなり重要な方向性だと思う。完全に昔のままなら、結局は懐古的な作品になってしまう。逆に『悪魔城』らしさを完全に捨てれば、それはもう『悪魔城ドラキュラ』である必要がなくなる。 その間で、どこまで変えて、どこまで残すのか。今回の復活で問われているのは、そこなのだろう。 40周年の先に、『悪魔城ドラキュラ』は何をするのか だから、本当に注目したいのは『Belmont's Curse』そのものだけではない。KONAMIがこの先、『悪魔城ドラキュラ』というIPをどう扱っていくのかだ。この10年以上、『悪魔城ドラキュラ』は本当の意味で消えていたわけではない。過去作のコレクション、リマスター、アニメ、コラボレーションなどによって、その名前はずっと残っていた。 しかし、それらの多くは過去に作られたものを維持するための展開だった。今回の40周年は、そこから一歩進もうとしている。『Belmont's Curse』は40周年企画の第1弾とされている。つまり、この先には新作、新しいコラボレーション、あるいはこれまでとは違う形の『悪魔城ドラキュラ』が登場する可能性もある。 ただ、ここからが難しい。 『悪魔城ドラキュラ』にはすでに40年分の歴史がある。プレイヤーは『月下の夜想曲』のような探索を期待するだろうし、ゴシックな城や美術、歯ごたえのある2Dアクションも求めるだろう。しかし、それらをもう一度組み合わせるだけでは、結局「懐かしい悪魔城」で終わってしまう。かといって、大きく変えれば「これはもう悪魔城なのか」という問題が出てくる。このシリーズが再始動した後に向き合うことになるのは、結局この問題なのだと思う。 40周年は、KONAMIにとって『悪魔城ドラキュラ』をもう一度整理する機会になった。そしてこの10年以上で証明されたのは、このシリーズが新作を出さなくても名前を残せるということだった。これから必要になるのは、その名前からもう一度新しいものを生み出せるかどうかだ。 『Belmont's Curse』は、その最初の一歩にすぎない。 40周年で本当に見るべきなのは、この1本が過去の『悪魔城』をどこまで再現できるかだけではない。その先で、『悪魔城ドラキュラ』が再び継続していくシリーズになれるのか。 そこにこそ、今回の40周年の意味がある。
Read moreIGNの『10点』は、何を評価しているのか
今年、IGNが10点満点を付けたゲームは6本になった。『Mixtape』『Mina the Hollower』『Forza Horizon 6』『鬼武者 Way of the Sword』『Valheim』、そして『ファイアーエムブレム 万紫千紅』。かつてIGNは8点前後の評価が多いというイメージから「IG8」と呼ばれることもあっただけに、今年の10点の多さはかなり目立つ。ただ、「今年のIGNは10点を出しすぎている」とだけ考えると、この現象の面白い部分を見落としてしまう。 気になるのは、同じゲームに対しても評価が大きく変わることだ。分かりやすいのが『Forza Horizon 6』である。IGN本家は10点を付けた一方、IGN JAPANは8点だった。IGN JAPANも、日本を舞台にした広大なマップやドライブそのものの楽しさは高く評価している。それでも、過去作と比較したときの新鮮さやコンテンツ面での物足りなさなどを理由に、10点には届かないと判断している。 同じゲームを遊び、長所も認めた上で、10点と8点に分かれる。ここで重要なのは、どちらが正しいかという話ではない。そもそもゲームレビューには、「ここまでなら10点」という共通の基準が存在しないからだ。そして今年10点を取った作品を見ていくと、その違いがさらに分かりやすくなる。これらのゲームは、必ずしも欠点の少ないゲームではない。むしろ、特定の長所が非常に強く、その部分がゲーム全体の評価を大きく押し上げている作品が多い。 『鬼武者』は剣戟とレベルデザインの落差 その特徴がはっきり出ているのが『鬼武者 Way of the Sword』だ。IGN本家は10点を付けており、特に高く評価しているのが剣戟アクションである。一閃、弾き、崩しといったシステムによって、敵の攻撃をただ待って反撃するのではなく、戦闘中に相手の動きを見ながら判断することが求められる。ボス戦でも敵のパターンを観察し、それに合わせて対応すること自体がゲームプレイになっている。剣を振る感触や戦闘の駆け引きについては、確かに非常に完成度が高い。 一方で、IGN JAPANの評価は7点にとどまっている。こちらでは、戦闘そのものだけでなく、それを取り巻くマップや探索の設計にも目が向けられている。実際、戦闘以外では移動距離が長く、どこへ進めばいいのか分かりにくい場面もあり、探索が「何かを発見するためのもの」というより、次の戦闘へ移動するための時間になってしまうことがある。 つまり、同じゲームを見ても、剣戟アクションの突出した完成度をどこまで重く見るかによって評価が大きく変わる。アクション部分については一級品なのに、それを支えるレベルデザインが十分に追いついていない。この落差を重く見るなら7点になり、戦闘の完成度を強く評価するなら10点にもなる。『鬼武者』は、10点という評価が「欠点がない」という意味ではなく、「突出した長所をどこまで評価するか」によって成立し得ることを、かなり分かりやすく示している。 『万紫千紅』はRPG化の功罪 『ファイアーエムブレム 万紫千紅』も、方向は違うが、長所と短所がはっきりした作品だ。今作の大きな特徴は、従来のシリーズよりもRPGとしての要素を大幅に拡張したことにある。4人の主人公を中心とした物語に加え、自由に移動できるフィールド、探索、ダンジョン、育成などが組み込まれている。任天堂自身も、今作では「RPGライク」な要素を強めたと説明している。これは今作の大きな魅力だろう。従来の『ファイアーエムブレム』では、戦闘マップと物語の間にあった余白を広げることで、キャラクターを育てたり、寄り道をしたり、自分のペースでゲームを進めたりできるようになった。4人の主人公を中心に異なる物語を進められることも含め、シリーズを一つの大きなRPGとして遊ばせる方向性はかなり大胆だ。 しかし、そのRPG化が、そのまま弱点にもなっている。『ファイアーエムブレム』を遊ぶ人が、必ずしも長時間の探索や育成を求めているとは限らない。さらに気になるのが戦闘の難易度だ。ノーマルでは敵を細かく処理しなくても勝てる場面が多く、育成したユニットを前に出して押し切れるケースもある。『ファイアーエムブレム』の戦闘で重要なのは、単にキャラクターを強くすることではなく、「誰をどこに置くか」「次のターンに何が起きるか」を考えることだ。そこに十分なプレッシャーがなければ、戦略を考える楽しさよりも、キャラクターを育てて強くするRPG的な楽しさが前面に出てしまう。 つまり『万紫千紅』は、シリーズを大きく拡張したことが長所である一方、その拡張によって従来のSRPGとしての密度が薄くなった部分もある。『鬼武者』が「戦闘は非常に強いが、戦闘以外のゲームデザインが弱い」作品だとすれば、『万紫千紅』は「ゲーム全体の規模と自由度は大きいが、その分だけ戦闘の緊張感が薄くなっている」作品と言える。 残りの3作品も、評価軸はそれぞれ違う 『Mixtape』は、音楽と映像、青春の記憶を組み合わせた体験そのものが評価の中心になっている。『Mina the Hollower』は、古典的な2Dアクションをベースに、探索や戦闘の密度を高めたゲームデザインが強みだ。『Valheim』は、サバイバル、クラフト、探索、建築を組み合わせ、プレイヤー自身が遊び方を作っていく自由度に大きな価値がある。 この3本を含めて考えると、6本の10点作品が同じ方向を向いているわけではないことが分かる。音楽と物語、古典的アクション、サバイバル、レーシング、剣戟、RPG化したSRPG。それぞれ評価されている部分はかなり違う。一方で、それぞれに「ここは弱い」と言える部分も存在する。 10点という数字が抱える矛盾 だからこそ、「10点なのだから欠点がないはずだ」と考えると、今年の6本には違和感が出てくる。逆に、「一番強い部分をどこまで高く評価するか」という基準なら、10点を付けた理由はかなり理解しやすい。結局、レビューで大きく差が出るのは、長所の評価よりも、短所をどこまで減点するかという部分なのだろう。 もちろん、IGNの10点が「間違っている」という話ではない。IGN JAPANの8点が正しいという話でもない。そもそもゲームには公式の採点基準があるわけではなく、10点という数字も、そのレビューを書いた人が作品のどこに価値を置いたかによって意味が変わる。だから今年の6本を見て、「IGNは10点を出しすぎている」とだけ考えるのは少し違うのかもしれない。むしろ面白いのは、10点を取ったゲームであっても、実際にはかなり大きな長所と短所を同時に持っていることだ。レビューの数字だけを見れば同じ10点でも、なぜ10点なのかまで読めば、評価されているものはそれぞれまったく違う。 ゲームレビューで本当に比較したいのは、10点と8点という数字ではない。そのレビュアーがどの長所を評価し、どの短所をどこまで許容したのか。その部分まで見て初めて、同じ10点という数字の違いが見えてくる。 結論 2026年のIGNの6本は、ゲームの評価が「完成度」という一つの尺度だけでは決まらないことを、かなり分かりやすく示している。長所が突出したゲームを10点と評価するのか、それとも長所と短所を一つずつ並べて、ゲーム全体として10点に届くかを見るのか。『Forza Horizon 6』『鬼武者 Way of the Sword』『ファイアーエムブレム 万紫千紅』を並べるだけでも、その違いはかなりはっきり見えてくる。 ただ、ここまで評価の基準が違うのであれば、10点という数字そのものにどこまで意味があるのかは疑問が残る。ある作品では「突出した長所」が10点の理由になり、別の作品では「全体としての完成度」が10点の理由になる。それでも同じ10点として並べられてしまうからだ。10点という一つの数字に、あまりにも違う評価基準を押し込めている。数字が客観的に見えるほど、実際のレビューとのズレも大きくなる。
Read more『軌跡』と歩んできた、日本ファルコム
9月17日発売予定の『空の軌跡 the 2nd』が、いよいよ発売を迎える。 2006年に発売された『英雄伝説 空の軌跡SC』を現代向けにフルリメイクした作品で、Nintendo Switch 2、Nintendo Switch、PlayStation 5、Steam向けに展開される。 原作から約20年。かつて『空の軌跡SC』として描かれた物語が、現在のゲーム環境に合わせて再構築されることになる。ただ、『the 2nd』を単純に「20年前のRPGのリメイク」として見ると、この作品が持つ意味は少し見えにくい。20年以上にわたって一つの世界を拡張してきた日本ファルコムが、ここにきてシリーズの原点へ戻っていることだ。 2025年9月に発売された前作『空の軌跡 the 1st』は、Steamで全期間のユーザーレビューの97%が好意的となっており、日本のPlayStation Storeでも6,000件を超える評価を集めている。PS5版のMetacriticスコアも87点となった。さらに2026年5月、日本ファルコムは『空の軌跡 the 1st』の全世界販売が引き続き堅調に推移していることを理由に、業績予想を上方修正した。 少なくとも、古いIPを現代向けに作り直すという試みが、評価だけでなく販売面でも一定の結果につながっていることは確認できる。 ただし、この結果をそのまま「旧作リメイクが成功した」と結論づけることもできない。『空の軌跡』は「軌跡」シリーズの原点であり、長年のファンにとって特別な位置にある。さらに『the 1st』では、シリーズとして初めて全世界同時発売を行い、複数のプラットフォームと多言語展開も進められた。 そのため、販売が好調だった理由を、リメイクそのもの、IPの蓄積、グローバル展開、プラットフォームの拡大などに明確に切り分けることは難しい。 1981年から続く、日本ファルコム 日本ファルコムは1981年に創業した。 『ドラゴンスレイヤー』『ザナドゥ』など1980年代の国産PCゲーム市場を代表するタイトルを生み出し、その後『イース』『英雄伝説』へと自社IPを積み重ねていった。現在も『イース』と『英雄伝説』はファルコムを代表するシリーズであり、その中でも『軌跡』は特に長い歴史を持つ。 2004年の『英雄伝説 空の軌跡FC』から始まり、『SC』『the 3rd』、さらに『零の軌跡』『碧の軌跡』『閃の軌跡』シリーズ、『創の軌跡』『黎の軌跡』へと続いてきた。特徴的なのは、作品ごとに世界をリセットするのではなく、同じ世界の中で物語を積み重ねてきたことだ。主人公や舞台が変わっても、過去の作品で登場した人物や国家、組織、事件が後の作品にも関係してくる。 2025年には「軌跡」シリーズの累計販売本数が900万本を突破したことも発表された。これは、一つの作品が長期間売れ続けるという話とは少し違う。過去の作品が次の作品の背景となり、過去のキャラクターや設定が新しい作品の価値にもつながっていく。 『軌跡』は、作品そのものだけでなく、シリーズを続けることで蓄積されていく情報やファンも含めて、一つの大きなIPになっている。 「積み重ね」は、そのまま強みになるのか ただし、長期シリーズには当然ながら反対側の問題もある。作品が増えるほど、既存ユーザーにとっては世界が広がる。一方で、新しく入ろうとするユーザーにとっては、その世界がどこから始まっているのか分かりにくくなる。 『軌跡』の場合、過去作の情報は単なる設定資料ではない。登場人物、国家、組織、過去の事件などが後の作品にも影響するため、過去作の知識が現在の物語を理解するための文脈そのものになっている。長く遊んできたユーザーにとっては、それがシリーズの魅力になる。 しかし、新規ユーザーからすれば、「どの作品から始めればいいのか」という問題にもなる。特に『閃の軌跡』では、4作品にわたってエレボニア帝国を中心とした物語が描かれ、その後も舞台や人物がさらに広がっていった。シリーズが大きくなること自体は悪いことではない。問題は、既存ユーザーにとっての「深さ」と、新規ユーザーにとっての「入りやすさ」が必ずしも一致しないことだ。 『軌跡』が長く続いてきたからこそ、この問題も大きくなった。そして現在の『空の軌跡 the 1st』『the 2nd』は、そこに対する一つのアプローチとして見ることができる。最新作をさらに先へ進めるのではなく、一度シリーズの原点まで戻る。 20年前のRPGを、そのまま再現しない 『空の軌跡 the 1st』が、原作をそのまま現代のハードへ移植したわけでも、別のゲームに作り替えたわけでもないところにある。物語やキャラクター、クオーツを中心とした基本構造は原作を引き継ぎながら、グラフィック、移動、操作、戦闘などには現代向けの変更が加えられている。特に戦闘では、クイックバトルとコマンドバトルを組み合わせることで、原作にはなかったテンポの調整が行われている。一方で、導力器にクオーツを組み込み、アーツやクラフトを組み合わせるという『空の軌跡』の基本的な考え方は残されている。 つまり、「昔のゲームを現代の画面で再現する」という方向ではない。かといって、タイトルだけを借りて新しいゲームを作るわけでもない。原作が持っていたゲームデザインの核を残しながら、現在のプレイ環境に合わせて周辺部分を作り直す。 『the 1st』の位置づけは、その中間にある。この方法がどこまで有効なのかは、今後も見る必要がある。『the 1st』が好評だったことは事実だが、一作の結果だけで「古いRPGをこの方法でリメイクすれば成功する」とまでは言えないからだ。 ファルコムは、大手でもインディーでもない ここで改めてファルコムという会社を見ると、もう一つ特徴がある。日本ファルコムは上場企業であり、インディーの小規模スタジオとは立場が違う。しかし、世界規模のAAAタイトルを数千人規模の開発体制で制作する大手パブリッシャーとも違う。 むしろ、自社IPを長期間維持し、そのIPを複数の作品やプラットフォームへ展開していくことに重点を置いた会社と考えたほうが分かりやすい。一つのタイトルを巨大化させるというより、長く続けられるシリーズを持ち、それを時間をかけて更新していく。そのため、ファルコムのゲームを見ると、企業そのものよりも先に『イース』や『軌跡』というIPが見えてくる。 一方で、作品と会社の距離が比較的近いという特徴もある。近藤季洋氏はゲーム情報番組やイベントなどに継続的に登場し、作品や会社について自ら説明している。もちろん、実際の開発は多数のスタッフによって行われているため、ファルコムを一人のクリエイターだけで説明することはできない。それでも、会社の代表者が作品について継続的に発信することで、「このゲームを作っている会社はどこなのか」という部分までファンが認識しやすくなる。 ただ、それが実際の販売やIPの継続にどの程度影響しているのかは、外部から簡単に判断できるものではない。 海外展開も「一度売って終わり」ではない ファルコムと海外市場との関係も長い。『軌跡』や『イース』では、中国語・韓国語版が継続的に展開されており、近年は欧米向けのローカライズや販売も行われている。 2025年の『空の軌跡 the 1st』では、ファルコムとして初めて全世界同時発売を実施した。中国市場との接点も長く、ゲームのローカライズだけでなく、イベント配信や音楽活動などを通じた展開も続けてきた。2025年にはjdkBANDが広州、上海、北京を巡る中国・アジアツアーを開催している。こうした活動を、ファンとの長期的な関係づくりと見ることもできる。 一方で、海外市場で継続的に販売するためのマーケティング活動という側面もある。どちらか一方だけで説明する必要はない。重要なのは、ファルコムが長期間にわたって複数の地域で作品を展開してきたことであり、『the 1st』の全世界同時発売は、その流れをさらに進めたものと見ることができる。 「積み重ね」は資産であり、同時に負担でもある ここまでを見ると、ファルコムのビジネスモデルの特徴は、長期的なIPの蓄積にある。長く続いてきたことで、過去の作品、キャラクター、音楽、設定、そしてファンが次の作品につながる。これは新規IPを毎回ゼロから立ち上げる場合にはない利点だ。 しかし、その積み重ねは同時にシリーズを複雑にもする。作品が増えるほど、既存ユーザーにとっては世界が深くなる一方、新規ユーザーにとっては理解すべきものが増えていく。『軌跡』の場合、過去作の情報が単なる設定ではなく、後の作品を理解するための文脈そのものになっているため、この問題は特に大きい。 『空の軌跡 the 1st』と『the 2nd』は、そこに対して一度原点へ戻るという方法を取っている。『the 1st』は評価、販売の両面で一定の成果を見せた。ただし、その結果をリメイクという手法だけに結びつけることはできない。『空の軌跡』というシリーズの原点であること、長年のファンが存在すること、初の全世界同時発売、多言語・マルチプラットフォーム展開など、複数の要素が同時に存在していたからだ。 だからこそ、『the 2nd』はもう一つの興味深い事例になる。20年以上続いてきたシリーズが、過去のファンに向けて歴史を再提示するだけではなく、その原点を現在のユーザーにとって新しい入口として成立させられるのか。これは『空の軌跡 the 2nd』という一作品の評価だけでなく、ファルコムが長年続けてきたIPの運用方法そのものを見るうえでも重要なポイントになる。ファルコムはAAAメーカーほど巨大ではない。 一方で、一作ごとに新しいIPを立ち上げるタイプのスタジオでもない。長い時間をかけて自社IPを育て、その蓄積を次の作品へつないでいく。その方法は、シリーズに歴史と厚みを与える一方で、新しいユーザーとの距離を広げる可能性も持っている。『空の軌跡 the 2nd』が面白いのは、まさにその両面が一つの作品に集まっているからだ。20年前の作品を現代向けに作り直すこと自体よりも、20年以上かけて大きくなったIPを、もう一度どこから始めさせるのか。 9月17日の発売は、その選択がどのように受け止められるのかを見る一つの区切りになる。
Read moreなぜカプコンのゲームは、面白いのに物足りないのか
最近のカプコンのゲームを遊んでいると、少し不思議な感覚になる。操作性はいい。映像もきれい。アクションの完成度も高い。大きなタイトルなら、ボリュームも十分にある。それでも、遊び終わったあとに「このゲームでなければ味わえなかったもの」が以前より少なくなったように感じる。 凡作という意味ではない。むしろ逆だ。カプコンは今でも非常に完成度の高いゲームを作っている。ただ、その完成度を上げる過程で、誰にとっても遊びやすく、理解しやすく、長く遊べるものへと調整されるほど、作品固有の癖まで薄くなっているのではないか、というのが今回の話だ。 まず、カプコンは本当に「保守的」なのか 現在のカプコンが、新しいことをやらなくなった会社だとは言えない。 『PRAGMATA』は新規IPであり、これまでのカプコンの代表的なシリーズとはかなり違う方向性を持っている。『鬼武者 Way of the Sword』も、長期間展開されていなかったIPを現代向けに復活させたタイトルだ。『モンスターハンター』も『ワールド』以降、世界市場を意識した大規模なシリーズへと発展している。 一方で、カプコンは『バイオハザード』など、すでに巨大な市場を持つIPを継続的に展開している。過去作品のリメイクも重要な柱になっている。ここまでは事実だ。だから「カプコンは新しいものを作らなくなった」という批判は正確ではない。 私が気になるのは、その先にある。新しいものを作っているにもかかわらず、最終的に出来上がるゲームの設計思想が、似た方向に収束していないかということだ。 『鬼武者 Way of the Sword』は分かりやすい例だと思う 『鬼武者 Way of the Sword』で最も評価したいのは、やはり戦闘だ。刀を振ったときの重量感、敵の攻撃を受けるタイミング、弾きから一閃につなげる気持ちよさ。敵の動きを見て、自分の操作で返すというアクションそのものは、非常にカプコンらしい。 一方で、京都に入ってからはゲームの印象が変わる。 広いエリアを歩き、素材を集め、依頼を受け、マップ上の要素を消化する。敵との戦闘も一度だけではなく、似たような戦闘コンテンツが繰り返される。レビューでも、京都の探索エリアや繰り返し要素については評価が分かれている。特に、一本道に近いステージ構造と比較して、広い探索エリアではテンポが落ちるという指摘がある。 『鬼武者』というゲームに、本当にこれだけの「現代的な大作ゲームの要素」が必要だったのだろうか。『鬼武者』の魅力は、刀を持った主人公が敵と向き合うことだった。広大な世界を探索することがシリーズの中心だったわけではない。それなのに、現代の大型タイトルとして成立させようとすると、探索、収集、サブクエスト、広いマップといった要素が加わっていく。 ゲームとして悪いわけではない。 ただ、「アクションを面白くするために必要だった要素なのか」と考えると、少し疑問が残る。これは、いわゆる「マップ掃除」の問題でもある。マップを開けば、やるべきことがたくさん表示される。プレイヤーはそれを一つずつ消していく。プレイ時間は伸びるし、コンテンツ量も増える。 しかし、プレイ時間が増えたことと、そのゲームらしさが増えたことは同じではない。 では、昔のカプコンは何が違ったのか クリエイターの話になる。カプコンには過去、三上真司氏や神谷英樹氏のように、作品と個人の名前がかなり強く結びついていたクリエイターがいた。 例えば『バイオハザード2』。神谷氏がディレクターを務めた初期バージョンは、後に「バイオハザード1.5」と呼ばれることになる。開発途中で方向性が見直され、最終的には大幅な作り直しが行われた。この判断にはプロデューサーだった三上氏も関わっている。 昔のカプコンが「自由な会社だった」という話ではない。むしろ、巨大なタイトルを途中から作り直すという非常に大きな経営判断が存在していたことだ。そして、その結果として生まれた『バイオハザード2』はシリーズを大きく発展させた。 さらに神谷氏がディレクターを務めた『デビル メイ クライ』も面白い例だ。この企画はもともと『バイオハザード4』の開発過程から生まれた。アクション性が強くなりすぎ、最終的に『バイオハザード』とは別のタイトルとして独立した。つまり「バイオハザードとして売れる形に戻す」のではなく、「これはもう別のゲームとして作ったほうがいい」と判断された。結果として『デビル メイ クライ』という新しいシリーズが生まれた。これは事実として非常に興味深い。 そして私が感じるのは、現在の大作開発では、このような「企画が途中で別のものになってしまう余地」が以前より小さくなっているのではないか、ということだ。 開発費も人員も市場規模も、当時とは違う。途中で方向性が大きく変われば、それだけコストもリスクも増える。だからこそ、合理的に考えれば「最初に決めた方向へ、できるだけ正確に進む」ほうがいい。 そして、ここで重要になるのが「誰がゲームを作るのか」という問題だ。 ゲームの規模が大きくなるほど、一人のクリエイターだけですべてを決めることは難しくなる。ディレクター、プロデューサー、各部門の責任者、そして会社そのものが開発に関わる。その結果、ゲームは個人の作品であると同時に、巨大な組織によって作られる製品にもなっていく。 だからこそ、過去のカプコンで実際に強い権限を持っていたクリエイターたちを見ると、この変化がより分かりやすい。 三上真司氏がカプコンを離れた後 まず、その代表的な存在が三上真司氏だ。三上氏は2006年にカプコンを退社し、その後Tango Gameworksを設立した。『The Evil Within』などを手がけ、カプコン時代とは異なる環境でゲームを作るようになった。しかし、ここで「三上氏がカプコンを離れたから、カプコンのゲームがつまらなくなった」と考えるのは単純すぎる。 むしろ数字を見ると、かなり逆の結果になっている。現在のカプコンを代表する『バイオハザード7』は累計1840万本、『バイオハザード RE:2』は1970万本、『モンスターハンター:ワールド』は2240万本を販売している。『モンスターハンター:ワールド』は『Iceborne Master Edition』を含めれば3040万本に達し、カプコン史上最大級のヒットとなった。 つまり、三上氏がいなくなった後のカプコンは、決して弱くなったわけではない。むしろ、三上氏が作り上げた『バイオハザード』という強烈な個人性を持つIPを、三上氏がいなくても継続的に作り続け、さらに世界規模のブランドへと拡大することに成功した。 『バイオハザード7』では三人称視点から一人称視点へ大胆に変更し、RE ENGINEを導入するなど、シリーズそのものを大きく作り替えている。それでも『バイオハザード』として成立させることができた。発売当初から大きく方向転換しながら、最終的には1840万本まで販売を伸ばしている。 ここに、現在のカプコンの強さがあると思う。昔のカプコンは「三上真司氏がバイオハザードを作る」という、個人の作家性に大きく依存した部分があった。現在のカプコンは、その作家がいなくても、作品の核を抽出し、大規模な開発体制とマーケティング、長期的なデジタル販売によって、世界市場で何千万本も売れるゲームへと再構築できる。 実際、カプコン自身も『モンスターハンター:ワールド』について、発売後も長期的にデジタル販売を続けることで販売を伸ばし、カタログタイトルが年間販売本数の70%以上を占めるまでになったと説明している。これは間違いなくカプコンの大きな強みだ。 ただし、同時にここから「個人がゲームを作ること」と「会社がゲームを作ること」の違いも見えてくる。個人の作家性は、その人にしか作れないものを生み出す。 一方、カプコンの現在の開発体制は、優れたゲームデザインを個人の才能だけに依存せず、何度でも再現し、世界市場へ拡大できる。言い換えれば、昔のカプコンは「人がゲームを作っていた」。現在のカプコンは「会社そのものがゲームを作れる」。 これは明らかな進化でもある。 ただ、その強さがあるからこそ、逆のケースも見てみる必要がある。カプコンを離れたクリエイターたちは、その後どのようなゲームを作ったのか。そして、個人の作家性を残したまま、大規模なゲームを成立させることは本当に難しいのか。 その答えを考えるうえで、神谷英樹氏と横尾太郎氏、そしてプラチナゲームズの関係は非常に興味深い。 神谷英樹氏、横尾太郎氏とプラチナゲームズ 神谷英樹氏もカプコンを離れ、Clover Studioを経てプラチナゲームズへ移った。『大神』や『Bayonetta』を見ると、神谷氏のゲームにはかなり強い癖がある。特に『Bayonetta』は、世界市場を狙った大作でありながら、万人向けに平均化されたゲームとはかなり違う。主人公のキャラクター、過剰な演出、アクション、ユーモアまで、作り手の趣味がそのまま作品になっている。 もちろん、それが最初から巨大な商業的成功だったわけではない。初代『Bayonetta』は2010年3月までに世界で135万本を販売したが、プラチナゲームズ側は当時、その数字が期待を下回ったと説明している。その後、移植やリマスターを重ねながら販売本数を伸ばしていった。そして、より象徴的なのが横尾太郎氏との『NieR』だ。 横尾氏の世界観やストーリーはかなり個人的で、万人が理解しやすいものではない。一方、プラチナゲームズは、その世界観をアクションゲームとして成立させる役割を担った。結果として、発売当初は決して巨大IPとは言えなかった『NieR』が、口コミや継続的な展開によって長く売れ続ける作品になった。 2017年9月の時点で、発売から半年ほどで世界累計200万本を突破。その後も販売を伸ばし続け、2026年には世界累計1000万本を突破したことが公式に発表されている。 ここで重要なのは、「個性的なゲームは売れない」という話が、必ずしも事実ではないことだ。『NieR』は、作家性の強いゲームでも、優れた開発力と組み合わせることで巨大な市場に到達できることを示した例だと思う。横尾太郎氏の世界観を、プラチナゲームズのアクション開発力が支える。どちらか一方を平均化するのではなく、それぞれの得意分野を残したまま一つの大作にする。 私は、この関係こそが「個人の作家性」と「大規模なゲーム開発」を両立させる一つの形だったと思っている。 小島秀夫氏とKONAMI この問題を考えるうえで、もっとも象徴的なのが小島秀夫氏とKONAMIの関係だ。 『メタルギア』はKONAMIの巨大IPだった。しかし同時に、シリーズは強烈に「小島秀夫のゲーム」でもあった。長い無線会話、映画的な演出、政治的なテーマ、メタフィクション、独特のユーモア。大作としてはかなり特殊な作品だったが、それでも世界的な成功を収めた。 小島氏はKONAMIの社内で大きな制作権限を持ち、Kojima Productionsという専属チームまで形成した。しかし、KONAMIがゲーム事業の方向性を変えていく中で両者の関係は悪化し、2015年に小島氏はKONAMIを離れることになる。 その後、小島氏は独立してKojima Productionsを設立し、Sony Interactive Entertainmentと組んで『DEATH STRANDING』を制作した。ここで興味深いのは、自由な環境を手に入れたからといって、必ずしも商業的な成功が約束されるわけではないことだ。 『DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH』は高い評価を受けた一方、現時点で公表されている分析では、PS5版が約160万本、PC版が初週約42.5万本で、合計は200万本強と推計されている。さらに別の分析では、開発費に対して利益率がかなり低く、シリーズ全体としても「大きく儲かった」とは言いにくい数字が示されている。公式の確定販売本数ではないため断定はできないが、少なくとも巨大なAAAタイトルとしては、非常に強い商業成績とは言いにくい。 そして2026年には、さらに象徴的な出来事が起きた。Sonyは小島氏の次回作『PHYSINT』から手を引き、その後Xboxが出版を引き受けることになった。小島氏自身も、Sonyからのキャンセル通知は突然だったと説明している。 つまり、小島氏の例は「クリエイターを会社から解放すれば、すべてうまくいく」という単純な話ではない。 むしろ逆だ。作家性の強いゲームは、会社が作る「平均的に売れるゲーム」から外れることができる。その代わり、売上もまた平均から外れる可能性がある。KONAMIとの決裂、独立後の『DEATH STRANDING』、そして現在のSonyとの関係を見ると、大企業と強い作家性を持つクリエイターの間には、結局どこかで「どこまで自由を許すのか」という問題が残る。 そして、ここがカプコンを考えるうえでも重要だと思う。カプコンが最大公約数を狙うのは、単純に保守的だからではない。巨大な開発費をかける以上、売上の予測が立ちやすいゲームを作る合理性がある。 ただ、その合理性を突き詰めれば突き詰めるほど、三上真司氏や神谷英樹氏、小島秀夫氏のような「この人だから、このゲームになった」という作品は生まれにくくなる。結局、大企業にとって一番難しいのは、作家性のあるゲームを作ることではない。 作家性のために、平均から外れることを許すことなのだ。 カプコンは「安全なゲーム」を作っているのか ここから先は、かなり私の推測になる。カプコンが「株主のために安全なゲームを作っている」と断言することはできない。経営陣が個々のゲームについてどのような判断をしているのか、外部からすべて分かるわけではない。ただ、大規模なゲーム会社ほど、商業的なリスクを無視できないのは当然だ。巨大な開発費を投入する以上、できるだけ多くのユーザーに届くゲームを作りたい。シリーズなら既存ファンを失いたくない。新規ユーザーも獲得したい。海外市場でも売りたい。 そう考えると、探索、収集、サブクエスト、長いプレイ時間、広いフィールド、初心者への配慮といった要素が増えていくのは不思議ではない。 一つ一つは正しい。しかし、全部を足していくと「どこかで見た大型ゲーム」になってしまう。これが、私がカプコンのゲームに感じている「平均化」だ。 「作り手が面白いと思うもの」から始められるか 昔の三上真司氏や神谷英樹氏、小島秀夫氏、現在の横尾太郎氏などを見ていると、最初にあるのは市場調査ではなく、「自分はこれを作りたい」という強い意志に見える。 もちろん実際には、彼らも会社の予算や販売戦略から自由だったわけではない。それでも、作品を見たときに「この人が作ったから、こうなった」と感じられる。私はここが重要だと思う。大衆向けにすること自体が問題なのではない。 『NieR』は世界中で売れた。『メタルギア』も巨大な商業シリーズになった。『バイオハザード4』も世界的な成功を収めた。つまり、個性と商業性は必ずしも反対ではない。 問題は、最初から「最大公約数」を出発点にしてしまうことだ。 『鬼武者』なら、刀を振ることを極端なまでに突き詰める。 『モンスターハンター』なら、一匹のモンスターとの戦いを極端なまでに突き詰める。 それだけでも、大作ゲームは成立するはずだ。ゲームを大きくすることと、ゲームを面白くすることは同じではない。 カプコンに必要なのは「もっと尖ったゲーム」なのか これも私の意見だ。 カプコンに必要なのは、すべてのタイトルを尖らせることではないと思う。『バイオハザード』や『モンスターハンター』のような巨大IPを安定して展開することには、それ自体に価値がある。 ただ、その一方で、会社の中に一人のクリエイターが「これは自分のゲームだ」と言える作品を作る余地が残っていてほしい。 短くてもいい。 不親切でもいい。 万人には受けなくてもいい。 マップに大量のアイコンがなくてもいい。 「このゲームでなければ存在しないもの」が一つあればいい。 カプコンは、ゲームの平均点を上げる能力については、おそらく世界最高クラスだ。だからこそ、次に見てみたいのは、平均点を上げることではない。「平均」から外れてしまったゲームを、それでも会社として世に出せるのか。 昔のカプコンには、それをやった人たちがいた。 現在のカプコンがもう一度それを許せるなら、今の圧倒的な開発力と組み合わさって、かつてとは違う「カプコンらしいゲーム」が生まれる可能性はあると思う。
Read more『時のオカリナ』、三度目の旅へ
1998年にNINTENDO 64で発売された『ゼルダの伝説 時のオカリナ』が、2026年11月5日にNintendo Switch 2で再び登場する。 9月8日に配信された「ゼルダの伝説40周年 Direct」では、これまで断片的だった情報が一気に公開された。ゲームプレイの実機映像も披露され、ハイラル平原やハイラル城を舞台に、実際のゲームプレイが紹介された。グラフィックだけでなく、自由なジャンプやダッシュ、カメラ操作、フルボイスなど、28年前の作品を現代のゲームとして成立させるための変更も数多く加えられている。発売日は11月5日に決定している。 任天堂公式サイトより ここまで実際のゲームプレイが見えてくると、単純な「名作のリメイク」という言葉だけでは、この作品を語りにくい。 なぜ今、『時のオカリナ』なのか。そして、なぜ28年前のゲームが、現在でも新しい作品として成立するのだろうか。 ■ 1998年、「3Dゼルダ」は何を作ったのか 『時のオカリナ』を現在の感覚だけで遊ぶと、当時どれほど大きな変化だったのかは分かりにくい。それまでの『ゼルダの伝説』は、基本的に2Dの画面の中で世界を探索するゲームだった。ところがNINTENDO 64で登場した『時のオカリナ』では、リンクも敵も建物も、すべてが3D空間の中に存在する。 任天堂公式サイトより 問題は、単純に世界を立体化すれば解決するものではなかった。敵が画面の外に回り込めば、どこにいるのか分からなくなる。カメラを自由に動かせば、プレイヤーが向いている方向まで分からなくなる。剣で攻撃しようとしても、3D空間では「敵の方向を向く」というだけのことが難しい。 そこで登場したのが、Z注目を中心とした操作システムだった。敵をロックオンすることで、カメラとリンクの向きを整理し、移動しながら攻撃する。現在では当たり前に見えるこの仕組みも、当時は3Dアクションゲームの問題に対する非常に明確な答えだった。 さらに、ジャンプを自動化することで、プレイヤーは「ジャンプボタンを押す」という操作よりも、どこへ移動するかに集中できる。 任天堂公式サイトより 『時のオカリナ』が作ったのは、単なる3D版『ゼルダ』ではない。3D空間の中で「見る」「移動する」「戦う」「探索する」という行為を、ひとつの操作体系にまとめたゲームだった。 ■ 「3Dだからすごい」では終わらなかった 『時のオカリナ』が現在まで語り継がれている理由は、技術的に3Dだったからだけではない。重要なのは、3D空間そのものをゲームデザインに利用したことだ。ダンジョンに入れば、目の前の部屋だけを見るのではなく、その先に何があるのかを想像する。 高い場所から下を見る。 遠くに見えている建物へ向かう。 一度訪れた場所に、別の時間になってから戻ってくる。 水路、階段、扉、段差、狭い通路。 プレイヤーが移動するために必要な空間そのものが、ゲームの仕掛けになっている。 任天堂公式サイトより これは、現在の3Dゲームでは珍しくない。しかし1998年当時、広い3D空間の中でプレイヤーに「どこへ行けばいいのか」を理解させること自体が、大きな課題だった。 『時のオカリナ』は、マップを単なる背景として扱わなかった。空間そのものを、プレイヤーに情報を伝えるための言語として使った。だからこそ、ハイラル平原を歩くことや、城下町から別の場所へ向かうこと自体が、ゲームの記憶として残る。 ■ 2011年、最初の大規模な再構築 2011年にはNintendo 3DSで『ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D』が発売された。ここで一度、『時のオカリナ』は現代のハードに合わせて作り直されている。 グラフィックは大きく刷新され、インターフェースも変更された。しかし、ゲームの基本的な構造は残された。つまり『時のオカリナ』は、画面をきれいにしただけでは成立しないゲームではなかった。その中心にあるのは、3D空間の中をどう歩かせるか、敵とどう向き合うか、ダンジョンをどう理解させるかという設計そのものだった。 任天堂公式サイトより 2011年のリメイクは、そのことを改めて証明した作品でもある。 ■ そして2026年 今回のNintendo Switch 2版は、そこからさらに15年後の『時のオカリナ』である。公開された映像を見ると、単なる高解像度化ではないことが分かる。リンクはダッシュでき、ジャンプもプレイヤーが任意に行える。 カメラも現代の3Dゲームに近い操作になり、演出やキャラクターの表現も大きく変わっている。オカリナについても、音声入力を利用して演奏する新しい仕組みが紹介された。 一方で、画面を見ていると不思議な感覚もある。 場所は知っている。 登場人物も知っている。 音楽も知っている。 しかし、その世界は1998年の記憶とは明らかに違う。これはリメイク作品にとって、かなり難しいところだと思う。昔のゲームを現代化する場合、何を変えて、何を変えないのか。 グラフィックは新しくできる。 操作も変えられる。 演出も作り直せる。 しかし、変えすぎれば、それはもう『時のオカリナ』ではなくなる。 任天堂公式サイトより ■ 28年経っても残るもの 『時のオカリナ』について面白いのは、現在のゲームと比較したときに「古い部分」が見えてくる一方で、「古くならない部分」も同時に見えてくることだ。自由にジャンプできるゲームは珍しくない。広大な3Dフィールドも珍しくない。ロックオンも、カメラ操作も、ダンジョン探索も、今では当たり前の要素になった。 しかし、それらが一つのゲームとして自然につながっていることは、決して当たり前ではない。1998年の『時のオカリナ』は、3Dゲームというまだ新しい環境の中で、プレイヤーが何を見て、どこへ進み、どのように戦うのかを整理した。その後の28年間、ゲームはさらに大きくなった。世界は広くなり、キャラクターは細かく動き、物理演算やストリーミング、オープンワールドといった技術も発展した。 任天堂公式サイトより それでも、プレイヤーが3D空間の中で迷い、考え、進み、発見するという基本的な体験は変わっていない。だから2026年の『時のオカリナ』は、単なる過去作品の復活ではない。28年前に作られたゲームを、現在のゲームと並べてもう一度見る機会でもある。 「昔の名作だから面白い」のではなく、なぜこのゲームが、28年経った今でもゲームデザインの話として成立するのか。11月5日に発売される新しい『時のオカリナ』を見ていく上で、そこが一番面白いところなのかもしれない。
Read more小島秀夫とPlayStation、10年にわたる蜜月関係の終焉
2026年9月10日、小島秀夫監督とPlayStationの関係に、大きな転換点が訪れた。 Kojima Productionsが開発する『PHYSINT』について、PlayStation Studiosが協業から離れることを発表。小島監督自身も、今年6月中旬にPlayStation側からプロジェクト中止の通知を受け、その後3か月にわたって新たなパートナーを探していたことを明かした。最終的に『PHYSINT』のパブリッシャーとなったのはXbox Game Studios。すでに『OD』で協業していたMicrosoftとの関係が、さらに一歩進む形となった。 Kojima Productions公式サイトより PlayStation側は「関係は強固なまま」と説明しているため、完全な決別と表現するのは正確ではない。しかし、2015年のKojima Productions設立から続いてきた「小島秀夫とPlayStation」という象徴的な組み合わせが、少なくともゲーム事業において大きく変わったことは間違いない。 この関係が始まった2015年は、小島監督にとって特別な年だった。 長年在籍したコナミを離れ、新生Kojima Productionsを立ち上げた直後、最初のパートナーとして選ばれたのがSony Interactive Entertainmentだった。そこで生まれたのが『DEATH STRANDING』である。 当時のPlayStationと小島監督の関係は、かなり理想的だったと思う。 PlayStation側には、既存の大型シリーズとは違う、新しい世界観を持ったAAAタイトルを生み出す理由があった。一方の小島監督には、長年『METAL GEAR』で培ってきた経験を、特定のシリーズや企業の所有物ではない形で再構築する場所が必要だった。 そして2019年、『DEATH STRANDING』が発売される。 賛否両論を巻き起こしながらも、これほど大規模な予算と人材を使って、一般的なAAAゲームの「面白さ」から意図的に距離を取った作品が成立したこと自体が、PlayStationと小島監督の関係を象徴していた。 その後、『DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH』もPlayStation 5向けに発売された。さらに2024年には、次のスパイアクション作品『PHYSINT』がPlayStationとの協業タイトルとして発表され、「小島秀夫が再びスパイアクションを作る」というニュースそのものが、かつての『METAL GEAR』を知るゲームファンにとって大きな意味を持っていた。 Kojima Productions公式サイトより それだけに今回の決定は興味深い。 なぜPlayStationは『PHYSINT』から離れたのか。 現時点でSonyが具体的な理由を説明しているわけではない。したがって、「小島作品が売れなかったから」と単純化することも、「Sonyと小島監督の関係が悪化した」と断定することもできない。 ただし、現在のPlayStationのビジネスを考えると、ひとつの可能性は見えてくる。 それは、AAAタイトルに対するリスクの考え方が変わったことだ。 『PHYSINT』はまだ開発初期段階にあり、2025年時点でもキャスティングなどの段階だった。小島監督自身も、完成までかなり長い時間が必要になることを示唆している。つまり、Sonyにとっては、莫大な開発費を長期間負担しながら、数年後の市場環境まで予測しなければならないプロジェクトだった。 そして現在の小島作品は、単なる「ゲームソフト」ではない。 映画的な制作手法、大規模なキャスト、ハリウッドとの関係、映画・テレビへの展開まで含め、小島監督自身がひとつのIPをゲームの外側へ広げようとしている。実際、『DEATH STRANDING』の映画化も進行している。 2027年にDisney+で独占配信予定のアニメーションシリーズ『DEATH STRANDING ISOLATIONS』。Kojima Productions公式サイトより これは小島監督にとっては自然な進化だが、プラットフォームホルダーから見ると、投資回収の構造がさらに複雑になる。 一方でXboxは、すでに『OD』を通じてKojima Productionsとの関係を築いていた。今回Microsoft側が「クリエイターがどこで、どのようにアイデアを実現するかを選べる」という姿勢を示したことも象徴的だ。小島監督自身もXboxについて「未来へのビジョンを共有できるパートナー」と表現している。 ここに、今回の決定を考える上で見逃せないポイントがある。 これは「小島秀夫がPlayStationを選ばなくなった」という話だけではない。 むしろ、2015年の小島秀夫はPlayStationにとって必要な存在だった。そして2026年の小島秀夫は、PlayStationだけに依存する必要がない存在になったのではないか。 『DEATH STRANDING』という新規IPを生み出し、『DEATH STRANDING 2』まで完成させ、映画やテレビ、そしてXboxとの『OD』まで並行して進めるKojima Productionsは、もはや一つのプラットフォームに所属するスタジオではない。 Kojima Productions公式サイトより 個人的には、『METAL GEAR SOLID 2』の頃から小島秀夫作品を追い続けてきた。『METAL GEAR SOLID V』をひとつの頂点として、その後の『DEATH STRANDING』と『DEATH STRANDING 2』は、現在のゲーム表現を考える上でも特別な作品だと思っている。 だからこそ今回のニュースを、単純な「ソニーとの決別」として見るのは少し違う気がする。 むしろ興味深いのは、ひとりのゲームクリエイターが、ひとつのハードメーカーとの蜜月を経て、再び自分の作品をより広い場所へ持っていこうとしていることだ。 『METAL GEAR』の時代には、作品の運命は企業とIPの中にあった。 Kojima Productions設立後は、作品の運命を自分たちで選べるようになった。 そして2026年の『PHYSINT』は、その自由を象徴する作品になるのかもしれない。 PlayStationとの関係が本当に終わったのかどうかは、まだ分からない。しかし少なくとも、小島秀夫とPlayStationが「唯一の組み合わせ」だった時代は終わった。 そしてゲーム業界にとって、今回のニュースで最も重要なのは、そこなのだと思う。
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